■せんだって、
「僕にニュースは要らない。ニュース・ゼロの生活。」
という記事を書いた。
http://acsusk.com/20190303-1/
上記のような考えはいたって平凡なもので、
「ニュース全般が不要だ」(a)
「真面目なニュースならまだしも、
ゴミのような話題ばかりの、現状のニュースは視ない」(b)
という声は、よくきく。
どちらかと言えば(b)が純化して(a)に行くようだ。
自分でもよくわからないことを書くと、
これはいわば、つまり、結局、要は、そうまさに、
「ポゥストモダアンの顛倒」
「個人主義の合成の誤謬」
と言える。
■二〇世紀後半、
それまで信じられていた、
「国民としての理想」はもちろん、
「世界をよくするための理想」
と言ったものもなく、
「問題は人それぞれだ。
正しさも人それぞれだ。
(あえて決めるなら、
話し合い、自由投票みたいなことによって
決めるしかないのだ)」
という流れが出てきた。
また、それまで
「知的」「教養」「良質」「古典」
などと言われてきた物に
「価値は人それぞれだ。
良さも人それぞれだ。
(あえて決めるなら、
人気や売り上げによって決まるのだ)」
と、それらを相対化する動きも、
同時に登場した。
それが昭和四三年の学生運動であり、
その後のポゥストモダアン思想であり、
漫画やテレビまんがなどの
サブカルチュアの地位向上であり、
新自由主義的経済・政策であり、
IT革命である。
■「国民としてニュースを知り、
選挙でよい選択をすべき。
困っている人がいれば、共感すべき」
というような、
「国民統合」「国民啓発」
のような役割が、ニュースには想定されてきた。
が、私は、先の記事で、
「でもそれ、個人としては別に要らないよね」
と、否定してしまう。
「国民」が「地球市民」に
置き換わったところでそれは同じだ。
結局のところ、
「”個人”としては、”他者”のニュースは、必要ないよね」-。
■そして、その結果としてもたらされたのが、現状の、
「国民のためのニュース」
(「地球市民のためのニュース」)
になんて到底なりえないし、
最初から想定もされていない、
ゴミニュースの氾濫である。
■しかし、やはり誰もそれは望んでなかった、
ということであろう。
特に、前述の学生運動やポゥストモダアン思想や
新自由主義経済やイット革命を
積極的に推進してきたような、意識の高い人ほど、
(意識が高いので、)思うはずだ。
「現状みたいになるのであれば、
まだ”真面目”とか”知的”とか、
“国民として”とか”世界のため”とかが
跋扈している方がよかったのになあ」
と-。
「個人主義によって、誰も喜ばない結果になる」
という、「合成の誤謬」現象の一種だろう。
■現に「真面目なニュース」を欲する人は少なくない。
「真面目なニュース」の供給も、
実はたくさんあるのだが、探しにくく、
明らかに需給のミスマッチング、
「市場の穴」が生じている。
というわけで、
今後はここに目を付けたビズィネッスが流行ると、
私は見るね。
平成三一年三月五日
明瀬祐介
acsusk@gmail.com
(余談だが、学問の世界でも同様の理由で同様の
「教養の退潮」が起こった。
ビズィネッスに直接的に貢献しそうな
工学やMBAなんかは盛んだ。
自然科学の基礎分野も人々の意識があり、
かろうじて生き延びている。
社会科学も、実践的な部分が強いので
ひとまず大丈夫そうだ。
人文科学のうち、歴史学も、
ポゥストモダアンによって
対象が広がり、視点が変わったが、
「実証」を根本とする点は変わらなかったのが幸いした。
残りの哲学と文学は…、
「良いものは人それぞれ」
を前提とするに世の中になったら、
そりゃあまあそうなるだろう…)
(さらに言えば、最近よく聞く、
「学校は要らない」
論だってそうで、そりゃあ「個人」を基準にしたら、
学校より効率のよい教育方法はいくらでもある。
「国民としての」とか「市民としての」にしか、
学校の意義というのは見出せん)