■映画「ミンボーの女」を
はじめて観た(DVD)ので、
その内容の一部と感想を書く。
本作は、平成四年公開。
伊丹十三が監督・脚本を務めた。
http://itami-kinenkan.jp/about/movie06.html
■長年ヤクザにたかられ続けてきた
高級ホテル・
「ホテル・ヨーロッパ」。
総支配人(宝田明)は
ヤクザ対策専門の部署を設置し、
経理の鈴木勇気(大地康雄)と
スタッフ若杉太郎(村田雄浩)の二人に
その役目を押し付ける。
因縁をつけてくるヤクザたちに
戸惑い、恐れ、対応を誤り、
火に油を注いでいく二人。
ホテルはついに民暴専門弁護士・
井上まひる(宮本信子)を雇い、
ヤクザへの対抗措置を取り始めるのだった。
まひるは伊東四朗や中尾彬演じる
強面のヤクザに堂々対峙し、
時にうまくいなし、
ホテルを守っていく-。
■井上まひる(っていうより宮本信子)が、
次々とヤクザへの対抗技術を伝授していく。
例えば、
「ヤクザに脅された場合は、
別室に通す。
もとよりヤクザは法律を恐れ、
一般人には暴力をめったに振るわないが、
会話をカメラで撮影・録画しておけば、
恐喝なんかがあった場合、
すぐに法的に対応できる。」
とか-。
万事この調子で、
宮本信子の指導を受けながら
大地康雄と村田雄浩が
徐々に勝利を治めていく姿が
楽しく小気味よい。
■さて、
「スーパーの女」を観た際にも書いたが、
伊丹映画は、昭和から平成初期の
「日本社会あるある」
である。
どれもコミカルで楽しい映画だが、
根底には、こんな批判意識が
あったように思う。
「日本社会には
いろんな不合理や因習がまかり通り、
社会のルールが適用されない
団体、業界がありますよね。
それらにもいろいろ面白い点はあると思いますが、
これから、そういうのは段々と排除し、
きちんとルールが守られる、
きれいな社会を作っていこうじゃないですか」-。
■この主張は、伊丹の死後、
ほぼ実現された、と言えよう。
もちろん今でも日本社会のそこかしこに
不合理や因習が残る「小さな社会」は
残っていようが、急激に縮小傾向にあり、
もはや社会から存在を許されていない。
だからこの映画は、今観るとすごく古く見える。
携帯電話が二の腕ほどもある
ごついやつだったり、
女性の水着が腰骨まで露出する
ハイレグだったりするけれど、
何よりも、
この映画に悪役として登場したヤクザが、
往時のような猛威をふるっていない。
■…が、その結果、
日本人は幸せになっただろうか。
例えば、ヤクザによる、企業への
ゆすりたかりおどしは、
かなり少なくなったように思う。
それ自体は間違いなく良いことだ。
が、ヤクザでも何でもない個人が、
ウェブを、SNSを武器にして、
企業や団体に
猛然と襲い掛かるようになった。
企業や団体の側も、それに対抗して、
この映画の宮本信子のような弁護士を雇い、
「クレイマー」からの訴えを録画・撮影し、
法的措置をとるようになった。
みながヤクザになり、
みなが宮本信子になったのだ。
■確かに、両者とも暴力を背景にしてはいない。
が、ご存知の通り、SNSは、
個人や中小の企業・団体くらいなら、
一瞬で潰す力をもった武器だ。
「悪」として晒される企業にも
言い分はあるだろうに-。
また、それらに対抗して弁護士が雇われ、
法的措置が取られるが、
「弁護士を雇う企業」もまた、
普通の人から見ると圧倒的な強者だ。
クレイマーにだって
理はあるだろうに-。
■暴力が使われなくなった代わりに、
法律には違反しない、
あるいは法律に則った
「力」が支配する社会に
なった。
それはもちろん
今まで虐げられていた人が
泣き寝入りをせずに済む、
というよい側面もあるのだろうが、
しかし、やはり同時に、
「発信力」「財力」「情報力」
などを持たない、
別の「弱い者」を生んでしまったように思う。
■というわけで、
もしも今、若き日の伊丹十三がいれば、
おそらく、「ミンボーの女」のような
主張の映画は撮らないのではないかな、
と思う。
例えば、
法律に守られない人々、
社会から敵視される人々、
「悪の側」
「犯罪者の側」
に味方するような、楽しい映画を
創るのではないか。
例えば
「ミンボーの男」、
とかね。(安直)
平成三一年四月一日
明瀬祐介(あかせゆうすけ)
acsusk@gmail.com
(■以下、どうでもよいこと
・ちょい役の鉄砲玉が柳葉敏郎)