■今まで読んだ村上春樹の小説で、
一番美しいのは、
「スプートニクの恋人」だと思う。
一番面白かったのは、「1Q84」だ。
そして、一番読みたくなかったのが、
「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」
である。
他の作品は小説として楽しんだけれど、
「多崎」だけはどうしようもなく
読むのが苦しかった。
■(文藝春秋のサイトより)
多崎つくるは鉄道の駅をつくるのが仕事。
名古屋での高校時代、
四人の男女の親友と完璧な調和を成す関係を結んでいたが、
大学時代のある日突然、四人から絶縁を申し渡された。
何の理由も告げられずに–。
死の淵を一時さ迷い、漂うように生きてきたつくるは、
新しい年上の恋人・沙羅に促され、
あの時なにが起きたのか探り始めるのだった。
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167905033
■この小説はきっと、
何か特別なことが描きたかったのではないのだ。
半分くらいの人の若者時代に一度くらいある、
「青春期の別れ」を描いたのだと思う。
時に、親しかった人との喧嘩別れがある、ということ-。
高校時代、大学時代、それ以降の時代と、
親しい人は自然と交替していく、ということ-。
彼らは出会った時代によって、
友人になる人のタイプも、自分との関係も、
ちょっとずつ違う、ということ-。
「仕事」のある「大人」というのは、
「青春」のように楽しいわけではないけれど、
また別の魅力があったりする、ということ-。
「多崎」は、
きっと、そんな当たり前のことを
描いていたのだ。
■私にも、多崎つくるほど劇的ではないけれど、
若者時代にちょっとした別れをしたことがある。
客観的にはおそらく平凡な物だ。
しかし、その別れから、
一年たっても、二年たっても、
そのことばかりを考えていたような気がする。
この時期の私は、主観的には
小説序盤の多崎だった。
しかし、一〇年もたつと、
こんな風に淡々と回想できるようになる。
若者は「今」を絶対のように感じる。
だから、「別れ」がとてもつらい。
それはとても美しいことだけれど、
大人になると、「当時の”今”」は、相対化され、
なんでもなくなってしまう。
■しかし、それでもなお、
不意に再体験させられるとき。
思い出してしまう。
あのときに自分がひとりで感じていた、
絶望や、後悔や、哀しみが、
心にかえってきてしまう。
だから、「多崎」は私にとって、
今でもきつい。
令和元年六月二〇日
明瀬祐介
acsusk@gmail.com
(あんまり関係ないけど付け足し)
■以下は中川淳一郎の記事。
https://president.jp/articles/-/23291
タイトルや内容は下品だが、
主旨には大いに賛同したい。
「”友人”は、実は大したものじゃない」
これ自体にはおそらく、
ある程度の年齢になれば
誰もが同意するところだろう。
しかし子供や若者には気づきづらく、
だから彼らは「友人」に悩む。
そして、どういうわけか大人も
あまり堂々とは教えない。
この大事なことを、
目立つところで目立つように唱えている、
数少ない著名人の一人が中川だ。
これは結構、見る人が見たときに
勇気づけられる文章だと思うし、
ぜひとも多くの若者に読んでもらいたい。
しかし、
「でも、そうは言ってもなあ…」
というのも部分は残る。
大人になっても、それは残る。
それが、
「多崎つくる」
なのだ。