アカセニッキ(明瀬祐介日記)

少しだけ役に立つ、または面白い内容を提供できれば。

所感

一九六八年、現在の若者たちはどこにいたのか。

投稿日:2019年6月26日 更新日:

■「1968」(小熊英二)という、
昭和四十三年前後に起こった
大学紛争に関する本がある。
https://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/978-4-7885-1163-7.htm
https://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/978-4-7885-1164-4.htm

後世の人間が
この、いわゆる「全共闘運動」を知るとき、
まず最初に思い浮かべるのは
「革命と進歩の理想に燃える左翼学生」
だが、この本を読むと、
どうもそういう人々ばかりではなかったらしい、
というのが分かるのだ。

もちろん、全共闘にもいろんな人がいた、
というのを前提としてうえで、
以下に、ちょっと書いておきたい。


■まず、彼らは進歩主義者ではなかった
むしろ進歩を嫌がっていたのだ。

彼らが幼い頃、東京ですらまだ、
丸いちゃぶ台でご飯を食べ、
オート三輪が走り、
子供は忍者ごっこなんかをやっている、
「三丁目の夕日」のような、のどかな世界だった。
田舎に至っては、唱歌「ふるさと」とか
井上陽水「少年時代」のような
麦わら帽子とランニングシャツで
野山をかけめぐるような村である。

そんな彼らが十八歳になったころにいきなり
首都高ができ、新幹線が走り、
ビルが立ち並ぶ東京に行くのだ。

そこに彼らがどうしようもない異和感や疎外感を感じた、
というのはまあ分かる。

俺だって田舎者なので、
Windows95だ、PC-98だ、
などと言われる、
現在の時代の進歩には全くついていけない。

「うまく言えないけど、これは、どこかおかしい」-。
そんなメンタリティだったのだと言う。


彼らは懐古主義者だった
彼らが大学に入るとき、
描いていた理想は「旧制高校」「旧制大学」だ。
そこで、文学と哲学に親しみ、教養を深める、
そういう像を描いていた。

ところが実際に入った大学は、
何百人も入る大教室で、
マイクで受ける授業である。

それでも文学や哲学書を読む。
それが大学生の嗜みで、
人生を豊かにするものだと思っていたからだ。
しかし、大学を卒業したら、
なるのは「ただのサラリーマン」で、
もう文学や哲学書を開くこともなくなる。

今から思えばぜいたくな悩み、とも思えるが、
「文学や哲学は、きっと人生を豊かにしてくれる」
という信頼を前提にして、
「でも、文学や哲学なんて、
社会に出たら何の意味もない」
と気づき、「教養」に対しても「社会」に対しても
何とも言えない残念な気持ちになる
というのはまあ分からないでもない。


だいいち彼らは、新しくなかった。

この時代の象徴的な音楽とされるのが、
「ビートルズ」だが、
「ビートルズ」なんて聞いてたのは
ほんとにごく一部だったという。

(どれくらい本当なのか分からないが、)
彼らに人気があったのは、
高倉健のやくざ映画だ。

なにより全共闘の象徴とされているのは、
最近死去した橋本治の
「とめてくれるなおっかさん」
のポスターである。

全然新しくないのだ。


■そう、彼らは古臭かった

「拳で殴りあった奴だけは、
立場を超えて仲間になる。」
という、マッチョ主義的な
メンタリティさえあった。

ずっと戦ってきた機動隊との間に、
あるとき、奇妙な友情が芽生えたことがあったという。
(機動隊には死者も出ているので、
そういうことばかりではなかったと思うが)

東大紛争の全共闘は、
教員たちを攻撃し続けたが、
東大文学部長の林健太郎にだけは
敬意を隠さなかった。

林が、学生に監禁されながらも
要求をすべて拒否して、
堂々議論で迎えうって
論破するような男だったからだ。


■さらに、
「彼らは左翼(ばかり)ではなかった」とか、
「彼らはあまり政治的じゃなかった」とか、
「彼らはメンヘラだった」
とか、
「彼らには、母校愛があった」とか、
いろいろちょっと意外なことが並ぶのだが
この辺で終わりにしておく。

さて、全共闘が
(我々とは全く異質な、)
「革命と進歩の理想に燃える左翼学生」
ではない(すくなくとも、そればかりではない)
となんとなく知ったとき、
後世の我々が思うのは、
ここである。

「では、一体彼らは現代なら、
どんなことをしていたのか
。」
「現代ならどんな人ことをやっている人が、
当時なら全共闘だったのか」

全共闘で熱心だったメムバーは、
学生のうちの、ほんの数パーセントだったという。
だから、例えば今の若者の中でも、
「もし当時生きていれば熱心な全共闘だっただろうな」
という層と、
「そうでもなかっただろうな」
という層に分かれるはずだ。


■ここに、私の、
たぶんに乱暴で、一面的で、感覚的な推論
言ってしまいたい。

「現在、”陰キャ”と言われるような層が、
全共闘なんだよ!」

「今で言えば、
インスタグラムとかストーリーとかティクトクとか、
AIとか仮想通貨とか音声認識とか、
“ダブルスクール”とか
“就活セミナー”とか
“スムージー”とか、
“スタートアップ”とか、
“バズ”とか、
“平成最後の”とか、
“ハロウィン”とか、
そういうのに、まじで
まとめてついていけねえし、
まじでうんざりするっ!!
てやつらが、全共闘なんだよ!」

「つまりなあ、
全共闘ってのはなあ、
おまえなんだよ!!!」

令和元年六月二十六日
明瀬祐介(あかせゆうすけ)
acsusk@gmail.com

(補足)
もちろん私は、層としては、
昨日その存在を指摘した、
「普通の大学」の、
「体育会系陰キャ」
「体育会系文化部ぼっち」
想定の中心においている。
https://acsusk.com/20190625-1/

が、「体育会系陰キャ」「体育会系文化部ぼっち」と、
全共闘とのメンタリティの重なりについては、
長くなるので、
またいつか、ということにしたい。

-所感,

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