アカセニッキ(明瀬祐介日記)

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所感

なぜ料理は絵画や音楽と比べて芸術扱いされないのか。

投稿日:2019年8月6日 更新日:

■ 「聴覚を中心にした芸術」として、音楽がある。
「視覚を中心にした芸術」は、
いろいろあるが、代表的には絵画だろう。

そして、「味覚芸術」があるとすれば、
言うまでもなく料理である。
そして、「嗅覚芸術」「触覚芸術」でも、
料理は代表になりうる。
(もちろん視覚も重要だ。
聴覚は、まあなくてもいいかもしれない)

が、「音楽」「絵画」は、
明らかに「芸術」と呼ばれる。
それに対し、
「味覚+嗅覚+触覚(+視覚)」の「料理」は、
より「実用」の度合いが高く、
あまり「芸術」扱いされない。

藝大にも、音楽と美術はあるが、
料理はない。

その起源はどこにあるのだろうか。


■ひとつには、再現性や保存性がない
あるいは再現や保存できないところにこそ
料理の凄さが宿るからだろう。

絵は、誰でもそのものを見ることができる。
音楽は生演奏を、複数人が聞くことができる。
楽譜で、曲を再現することができる。
今なら録音もある。

料理はそのものを味わうしかないし、
味わったらなくなってしまう。
楽譜にあたるのはレシピだが、
やっぱり食べてみなければ分からない。
また、「シェフの味」みたいな大量生産品もあるが、
やっぱり音楽の録音音源や、
絵画の印刷とは、ちよっと意味合いが違う。

これと関連するけれど、
良さの言語化が困難、
というのもある。
「食レポ」はやっぱり難しいのだ。


■また、素材の重要度が高い、
というのもあるかもしれない。

絵画の画具も大事だ。
音楽の楽器も大事である。

が、料理における素材は、
それらとは比較にならないほど味を決める。


■だが、それ以上の理由は、
物語が作れないからだ。

「哀しい音楽」「怒りの音楽」は作れる。
「哀しい絵」「怒りの絵」もある。

が、「哀しい料理」「怒りの料理」は難しい。
ふつう、それはまずい料理のことだ。
料理を高めると、喜と楽しかない


■これは料理が、
人間の生存や本能に、
より根差しているからだろう。

「見る」「聞く」は、
なくてもなんとか生きていける。
しかし「食う」は、
ないと死んでしまう。

もともと、味覚は
危険性・有用性を
判断するためにできたと言われる。
視覚や聴覚もそうだと思うが、
「音楽」や「絵画」の鑑賞の際は、
それを離れて、
「この音は人体に有用だから気持ちがいい」
などというものではない。
が、料理に対する味覚は今も、
「この味は人体に有用だからおいしい」
に近い。


■生理的本能に忠実。

その点で料理は
ポルノに近いのかもしれない。

視覚の絵画は「芸術」だ。
聴覚の音楽も「芸術」だ。
しかし味覚の料理はポルノが近い。

だからこそ、
料理が一番すごいと、俺は思う。

明瀬祐介(アカセ)
acsusk@gmail.com

(参考)
https://michino55.exblog.jp/11130446/
http://yashoku.hatenablog.com/entry/2014/11/13/215704

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