アカセニッキ(明瀬祐介日記)

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所感

圧倒的なスピードで「教養」を身につけていく、シンプルな思考方法

投稿日:2018年8月31日 更新日:

■本屋に行けば、「教養としての〇〇」のようなタイトルの「教養」に関する本がたくさん目に付く。

いつの時代も、誰もが「教養」を身につけたい、学びたいと思っている。
しかし、勉強の仕方が分からない。本を読んでも身についた気がしない。
そもそも何が教養なのか分からない、といった感じではないだろうか。

私は、自分に教養があるとは言えない。

しかし、私は、
「ある考え方を知るだけで、以前の自分とは比べ物にならない圧倒的なスピードで、教養がどんどん身についていく」
という方法を知っている。

 

■教養の定義は人や文章によってさまざまだが、
一般的なイメージとしては、(主に西洋由来の)哲学、歴史、文学などを指す傾向があるように思う。
やはり、大正時代頃の旧制高校文化の影響が残っているのだろう。

後述のように、私は「哲史文」の重要性を否定しない。
今なお、それらはやはり重要な教養である。
しかし、例えば科学の知識が「教養」扱いされないという風潮があるのはどうだろうか。
科学技術の知識だって立派な「教養」だと思うし、
やはり現代社会で、運動方程式も水素分子もHTMLも知らない人は、
いくら文学史や美術史に詳しくても、それだけでは「教養がある」とは見なせないのではないか。

では「教養」とは、いったい何なのか。

 

■思うに、「教養」の一番適切で、多くの人が納得できる定義というのは「世界の見方」なのだ。

化学なんかが分かりやすい例だと思う。

ここに、「分子」や「原子」といった言葉すら聞いたことがない人がいるとしよう。
彼は、不都合なく生活することができる。
ほとんどの仕事にも支障はないだろう。
しかし、ある日その人が、
「身の回りにあるすべての物が原子・分子でできている」
と知った瞬間、その人の中で、
それまでもずっとあったはずの水が「H2O」に、
それまでもずっとあったはずの鉛筆が「C」に変わるはずだ。

世界の見方を変えるような知識や経験―。
これこそが「教養」なのだと私は思う。

 

■この定義だと、「教養」は無限にある。

これは自分で試してみればすぐわかるのだが、鉛筆での静物デッサンを1週間ほど練習してみるとよい。
おそらく電車に乗っても、机を見ても
「これはどう描けばいいのだろう」
「形が複雑で描くのが難しそうだな」
などと考えるようになるだろう。
そう、鉛筆デッサンによってあなたの「世界の見方」が変わったのだ。

また、何か職業に就いたことがある人ならば、その職業についてほんの数週間ほどで、
「普段見ていた風景の中の、見落としていたものが急に目に付くようになる」
経験をしたことがあるのではないだろうか。

例えば、同じスマホアプリの画面でも、私が見るのとプログラマーが見るのでは、見ているところが異なるはずだ。
同じ車を見ても、同じビルを見ても、自動車エンジニアや建築家と私では、感じる物が大きく違う。

いずれも、知識や経験によって「世界の見方」「とらえ方」「感じ方」が変わっているのである。

 

■「教養」とは、「世界の見方」のことであり、
「教養を身に着ける」とは、「新しい世界の見方を学ぶ」ことだ-。

あまり料理が得意じゃない私と毎日料理を作っている私の母親では、
同じ店で同じ物を食べても感じ方は大幅に違う。
「料理」も教養である。

私とサッカー部員が同じサッカーの試合を見ても、
やはり見方は違うだろう。
「サッカー」だって教養なのだ。

この考え方をとった瞬間、あなたの「教養」の伸びしろは大幅に広がる。
多くの知識や経験を、そのまま「教養」扱いすることができるのだから。
体操も、旅行も、恋愛も教養である。

おお! なんというか、キャバクラ代を接待交際費として経費扱いしたり、
ただ遊んでいるだけの休みを研修扱いしたり、
大学生が麻雀を「中国語の勉強」と言ってしまうような、
もっと単純に、女遊びを「社会勉強」と言ってしまうような強引さがあるぞ!

というわけで、一瞬で「教養」を身に着けるすごく簡単な方法として、
「 “教養” の定義を広げること」
と、もっともらしいことを書いて、このブログをアップロードしておきたい。

 

(* ちなみに上では、これまで哲学や文学や歴史のみを教養扱いする風潮には異議を唱えているが、
「哲史文」が教養の王道とされてきたのは、やはり故なきものではない。
上に書いているように、いろんな専門知識や経験は「世界の見方」を変える。これは間違いない。
しかし、専門知識は別に「世界の見方」を変えるために存在するわけではない。
それに対して哲学や文学は「世界の見方」そのものを直接変えたり、問うたり、考えたりするために存在する。
そして歴史もまた、世界の見方の根本にかかわるものだ。
だから、やはり「哲史文」は「教養の王道」なのである)

 

(20180903追記)
と、ここまで書いたところで、この本に同じようなことが書いてあるのではないか、という結論に達した
https://j.ktamura.com/this-is-water

やはり、オリジナルのことを考えるのは難しい。

-所感

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