誰が何と言おうと《裏窓》と《サマー・オブ84》は駄作である
- アルフレッドヒッチコック監督作《裏窓》はずいぶん評価の高い映画である。
脚を怪我したカメラマンは、裏窓から見える都市の集合住宅の風景だけを見ている。
やがて、その住人の一人が、夫人を殺した殺人者でないかと疑い始める。
カメラマンとその恋人は男の郵便物を読み、花壇を掘り、住居に入って疑惑を追及していく-。
- 2018年、《サマー・オブ84》という映画が作られた。
1984年の夏、アメリカの郊外。主人公は4人の仲間と、窓から幼馴染の女の子を見て遊んでいる。
そして、一方の裏窓から見える警察官が周辺の子供をさらっていく連続誘拐犯ではないかと疑い、尾行し、花壇を掘り、トランシーバーで音をさぐり、真相を突き止めていく-。
- 見れば分かる通り、《サマー・オブ84》は《裏窓》を下敷きにした映画だ。《サマー・オブ84》の最後、主人公は脚を傷つけられたところでエンディングに入るのだが、これは《裏窓》もまた主人公が両足動けなくなった画面で終わるというのが念頭に置かれている。
- さて、この2作《裏窓》と《サマー・オブ・84》だが、どちらも駄作である。
他人の家に侵入し、窃盗を行ない、盗聴を行なう。でも、正義。なぜならその家の住人が犯罪者(殺人者)だと“思う”から-。そして実際犯罪者だから-。そういう論理を、そしてそういう映画を私は認めない。
- もちろん、主人公が、“私”(評者)の倫理と違う行動をとったからといって、即、その映画が駄作となるわけではない。
けれどもそうであるならば何かしら“私”に問いかけ、ゆさぶるようなものがあったり、エンターテインメントならそれを超えるような楽しさ、面白さが必要だ。
《サマー・オブ・84》の最後、
「連続殺人鬼も誰かの隣人だ」
という主人公の独白で終わるわけだが、アメリカでも、日本と同じように、こうして“安心・安全”を求め、それにそぐわない、“危険”“怪しい”“不審”なものにたいする恐怖を、あおるだけあおる風潮はあるのだろう(私だってそういう社会に全く同調しないわけではない)。
けれども、こういう世間の持っている
「隣人は犯罪者かもしれない」
という風潮にただただ追従し、助長するような映画は基本的に駄作だし、何も関心するとこはない。
2024年07月05日公開
2024年07月05日更新