[再録]第二外国語初等クラスの春。
- 大学生だったある春、
「またも」留年が決まったぼくは
いい加減、大学生である自分に
嫌気がさしていた。
一念発起して勉強し直す気概もないくせに、
退学する勇気もなく、
将来への不安だけで春を迎えていた。
- そんなある日、どういうわけか、
ふと思い立ったのだ。
あ、そうだ、
外国語をやってみよう。
幸い、うちの大学には
一般教養の第二外国語として、
中国語やフランス語やドイツ語といった、
いろんな外国語の初等クラスが開講されている。
全部習えばいいじゃん。
無料なんだから(学費が余分にかかるわけではない)。
- こうしてその春、
僕の「初等第二外国語」の日々がはじまった。
一回生(一年生)に交じって
アラビア語の授業を受け、終わったら
朝鮮語(韓国語)の教室に移動。
フランス語の課題を解いた後は、
ドイツ語の会話教室だ。
冠詞の丸暗記にひたすら厳しい
ドイツ語の先生もいれば、
ユーモアがあるけれど、
話し方に品がありすぎるのが
鼻につくフランス語の先生もいた。
当地の文化や社会を
教えてくれることも多かった。
- 今にして想う。
「あれは人生で十番に入る、
自分の好判断だったな」と-。
話せるようになったか、
ものになったかというと
決してそんなことはない。
アラビア語なんて、
今では文字すら忘れてしまった。
将来的には翻訳機の発達で、
語学というもの自体、
あまりいらなくなるかもしれない。
- それでもなお、
あれが好判断だったと言えるのは、
勉強するということの根源的な楽しさを
取り戻させてくれたからだ。
語学の授業は、基本的に楽しかった。
私だけでなく、周りの学生も、
他の一般教養や専門の授業のときの学生よりも、
ずっと楽しそうだった。
どうしてなのか。
ひとつは、教室が賑やかだというのがある。
語学の授業だと隣の人と会話練習したりする。
ちょっとした友人になる。
また「話す」という身体行為をしていることも
関係があるのかもしれない。
なんでも「聞いている」ときよりも
「やっている」ときの方が楽しいのだ。
- そして、「初等」だから、というのもある。
専門課程も、一般教養も、
それなりの知識を前提としている。
例えば子どもがいきなり学ぶことはできない。
しかし、語学だけは違う。
基本的に子供がやっていることと変わらない。
赤ん坊はみんな、
楽しそうに語学を学んでいる。
ほとんど語学をしているときだけ、
私たちは赤ん坊と対等に
勝負することができる。
そこに私はどうしようもない
幸福を感じる。
語学初等クラスを学ぶとき、
私たちはいつでも「馬鹿」に還ることが
できるのだ。
- 自分と同じ境遇の学生がいたら、
(あるいは留年していなくても)
もし学校に「第二外国語」の授業があれば、
それをひとつぐらい取ってみる、
ということを勧めておきたい。
もっと役に立つ勉強もいいけれど、
少ししか役に立たなそうな、
フランス語やドイツ語や韓国語の
授業に出てみるとよい。
そのにぎやかな教室は、
きっと自分を赤子に、馬鹿に
還してくれる。
令和元年七月二十八日の日記を再録
2025年04月29日公開
2025年04月29日更新