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AIイラスト普及後の”人間の絵”は、”書道作品”と同じ扱いになる

  • 最近、たまたま書道の歴史について書かれた本を眺めてみる機会があった。

    光明皇后や空海からはじまり、青蓮院流や御家流といった単語が並んでいる。

    みんな、
    「書道なんて全然わからんよ」
    と言うと思うので、私のお気に入りの書を見てもらおう。


  • (リンク1)の上部は篆隷文体というのだが、これ、すごくないですか?〈伝信鳥書〉〈龍爪書〉なんかは中国の六朝時代、六世紀頃にあったということなんだけど、明らかに21世紀くらいの、文字デザイン、フォントじゃないですか。


  • こういった書道の歴史の本の多くは戦前で書の歴史の記述が終わってしまっているので、
    「現代の書はどうなっているのかな」
    と思い、ちょっと覗いてみる。

    いろいろあるのだが、リンク2が作品をたくさん見られるのでごらんいただきたい。
    その作品はどれも美しい、と素直に思える。


  • ここで素朴な疑問が浮かぶ。

    なんでこんなすごいのにみんなあんまり“書”を見ないの?
    俺なんかほぼ初めてだぞ。

    …と、いう理由はおそらく分かる。“美術”の中に書が入れられないことが多いからだろう。

    …じゃ、なんで“書”は“美術”の中に入らないの?


  • これは日本が明治の初めに“art”を導入し、その訳語のような形で“美術”を作ったときに発生した現象だと思う。

    絵画や彫塑にあたる物は、西洋にも、日本や中国にもあった。

    しかし、日本や中国にあった“書”にあたるものはなかった

    (人が身体のみを使って書く)
    字の美しさを愛でる文化が全くなかったわけではないが、その文化としての規模は日本や中国、あるいはアラビアにおけるそれよりもはるかに小さかった。
    だから“art”から“美術”を作った時に、その“art”の中にほとんどなかった“書”を入れなかったのだろう。


  • 「“書”“書道”が、“美術”の中に入れてもらえない」
    言い方を替えれば、
    「“書”“書道”が、“美術”から独立している」-。

    この現象は“書”にとって損得両面があったと思う。

    メリットとしては例えば何かイヴェントや、あるいは組織なんかをつくるときに、“書”“書道”のような部門・ジャンルが独立して作られる可能性が増える、ということだ。

    “音楽”“美術”に対して厳然と存在する“書道”。
    うん、悪くない。

    このとき、予算や人員なども、残り二つに伍する形で配分される、という俗なメリットもある。


  • また、これはメリットもデメリットもあるのだろうけれど、
    “書”の風習はいわゆる“美術”とはかなり異なる道をたどることになった。

    《平成の書》という本は、平成、つまり現代の文化を記録したものであるにもかかわらず、“書道家の師弟の系譜図”として一門図のようなものが何ページにも渡って出てきて、そこに出てくる書道家はみんな号を持っている。

    このように師弟の関係が重視され、名跡・号が使われるのはもう、他の〈美術〉ジャンルでは考えられないのではないか。

    これはおそらく“書”が、絵画や立体造形のように“自由”ではありえない、“自由”であることを許されない文化であることに起因しているし、逆に“書”が絵画や立体造形のようには“自由”ではない原因にもなっている。
    もともと意味を伝えるための文字を書くことを目的としていた書には、“うまい”“へた”が厳然として存在するのだ。

    これは


  • デメリットもある。

    “美術”の愛好家、あるいはそこまで行かない“美術”に関心がある人の視野に“書”が入ってこないことだ。

    たとえば“美術”ジャンルの〈近日の展覧会〉の一覧のようなものには“書”の展覧会が出てこない。

    ウェブ上でも、“美術”に関心がある人に、自然と“書”の情報が入ってくるようにはなっていない。


  • 書のにわかファンである私が言うことではないのだが、現代ではこのデメリットの方も大きくなっているのではないか。
    “書”、すごいのになあ、と。

    というわけで今まで、書を見ていなかった人、とりわけ、“文字デザイン”や“カリグラフィ”“フォント”に興味のある人は、ぜひ、人間が書いた“書”に触れてほしい。きっとそこには何かのヒントがあるはずなのだ。


  • (以下、つけたり)
    ところで、最近はAIのイラストが発展し、人間の描いた絵の価値が問い直されている。

    ここで私の未来予測を述べておこう。
    「AIイラスト発展・普及後、人間の描いた絵の位置付けは、従来における書道作品の位置付けに近くなる」
    のだ。
    つまり、厳然として価値がある。一方で、ある種の大量生産に用いる、商業製品としての絵(書)の価値は厳しい。

    現代だって、きれいな字だったら、印刷で事足りるのだ。
    にもかかわらず、我々は
    “人間が”
    “紙(など)の上に”
    “手で”
    書いた書に、美しさ・凄みを感じるわけだ。
    「私には書けない」と-。
    「このように指を、腕を動かすことはできない」
    と-。

    AI発展後の絵も、
    “人間が”
    “紙(など)の上に”
    “手で”
    描いた絵、その描いた人の技量、身体としての指や腕の器用さに(自分と比較して)、感動する、ということは、おそらくなくならないのではないか。
2024年06月14日公開
2024年07月02日更新
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