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[再録]最後の関西文化人・堺屋太一死去。「失われた三〇年」は、ついに終わることがないまま終わった。

  • 大学時代、どういうわけか
    野口悠紀雄と堺屋太⼀をよく読んでいた。

    野口では
    「日本経済改造論」
    「日本経済は本当に復活したのか」
    「戦後日本経済史」、
    堺屋では
    「組織の盛衰」
    「日本を創った十二人」
    「歴史の使い方」
    あたりが好きで、いずれも⼀般向けの書だが、
    当時ほとんど本らしい本を読まなかった私の本棚では、
    最も知的な部類に入るものだった。

  • 著書を読むと、
    野口は科学技術とアメリカ体験、
    それにヨーロッパ文学をベイスにしており、
    精緻な反面、ややもすると
    気取った東京人のイメイヂを受けるところがある。

    ⼀方、歴史、特に日本史をベイスにした堺屋は
    直観的にわかりやすく、私は堺屋の方により親しみがもてた。

    (ちなみに、そもそも堺屋を初めて見たのは、
    子供の時に視ていた「堂々日本史」だった)

  • そんな、異なるアプローチの野口と堺屋だが、
    (大きく分けると)同じ認識に立ってっていたように思う。
    (細かい点では異なる)

    「工業化し、大量生産をうまくやった国が
    覇権を握る時代はすでに過ぎ去り、
    ソフトウェア、デザインやブランドで価値が決まる時代になる」

    というコンセプトは、現在ほとんど共通認識になっていよう。

    この考えを、野口と堺屋は早くも平成⼀桁時代の後半に、
    日本の多くの準知識層にまで広めていた。

    二人の著書は、
    かつて「プロジェクトX」や「万物創世記」なんかを視て
    「日本のモノづくりは世界⼀」
    と妄信的に信じていた私を、
    ⼀転、グローバル化論者、規制緩和論者に変えたのだった。

  • 国土政策に関しては、
    野口と堺屋には大きな差異がある。

    おそらくアメリカと東京都内以外に
    ほとんど住んだことがない野口は、
    分権化(道州制?)推進論者ではあるが、

    そもそも
    「政府部門の仕事は必要最低限にとどめるべきだ」
    というスタンスの持ち主であり、
    「分権化を進めれば、”足による投票”で競争が進み、
    自然と最適に近い形になる」
    としていた。
    首都機能移転を無駄の極みと
    痛烈に批判していたことがある。

  • その首都機能移転を推進していたのが堺屋だ。
    近年の最大の悩みは、関西の没落であったという。

    明治以降、戦後しばらくまでは
    「東京と関西を車の両輪として
    バランスを取って発展させていくのが望ましい」
    という、公共部門やエリート層の意識もあり、
    人々の間にも、無意識に
    「そういうもんだ」
    という雰囲気があった。

    (たとえば「ゴジラ」が東京を壊すなら、
    「ゴジラの逆襲」では大阪を襲わせる-、
    秋の天皇賞を東京で行うなら、
    春の天皇賞は京都で開く-、というように)

    が、いつしか関西は東京に水をあけられてしまう。

  • そして、何より、
    「関西文化人」ともいえる人脈がなくなった。

    かつて、関西には、
    司馬遼太郎、小松左京、高坂正堯に代表される、
    関西にアイデンティティをもちながら
    広く国民から親しまれ、尊敬される文化人がいた。

    堺屋はそのほとんど最後の人物で、
    後継はついに現れていない。
    (出口治明、井上章⼀、八幡和郎、村田晃嗣と言った人たちは
    いずれも私の好きな人物で、
    将来「関西文化人」となる可能性を持っているが、
    まだ、前述の面々ほど国民から親しまれるまでには
    至っていなかろう)

  • よく知られている通り、野口と堺屋は、
    実はキヤリアのスタート地点が⼀緒である。

    昭和四三年に政府が募集した明治⼀〇〇年記念論分で、
    最優秀を獲得したのが当時大蔵省の野口悠紀雄で、
    第⼆席が通産省の池口小太郎、後の堺屋だったという。

    そして、「明治⼀〇〇年」という国威発揚行事で
    デビュを飾った堺屋と野口は、最後まで、
    ともに、広い意味でのナショナリストだった。

    もちろん国粋主義や差別主義は持っていない。
    経済政策では、ともにグローバリストに分類されよう。

    しかし、両者とも、
    日本の復興を誇りに思い、
    「激変する世界の中で、
    どうすれば日本は生き残れるか、
    日本人は豊かになれるか」
    ということを強烈に考えていた。


  • むろん、堺屋の数々の活動、提言に関しては
    それぞれ賛否もあろう。

    しかし、何はともあれ堺屋の予測の多くは的中し、
    最大の予言「知価社会」は実現した。

    そして日本を取り残したまま、世界は、
    (「知価社会」を前提とする、)
    さらに次の段階に進んでしまった感さえある。

    堺屋も、そして一方の野口も、
    平成年間「失われた三〇年」を通し、
    (もちろん高度成長期やバブルとは異なる、)
    「日本の栄光の時代」の実現を信じ、
    そのための策を訴え続けた。

    「日本の力はこんなものではない、
    適切な政策さえとれば、
    再び新しい繁栄を、豊かさを手に
    入れることができる」と-。

    「失われた三〇年」とは、そんな風に
    「日本の栄光の時代」の出現・再来を
    目指してあがく時代だった。

    今、そんな、「日本の栄光の時代」を
    本気で目指すものは誰もいない。

    堺屋は、その後期の代表作「平成三十年」の、
    タイトルとされた時代を通り過ぎ、
    その年に終わりに三回目の大阪万博開催が
    決まったのを見届け、この世を去った。

    「失われた三十年」は、ついに終焉しないまま、
    「終焉させよう」という人々の意気さえ失った末、終焉する。
    堺屋の死去で、私はそんな風に感じたのだ。


    (ちなみに堺屋と野口は、
    近年では平成⼆七年にNHKで放映された
    「戦後70年 ニッポンの肖像」で隣席したが、
    特にこれといったセッションはなく、
    私は残念に思った覚えがある)

    (野口は現在喜寿にして
    GAFAと仮想通貨に早くから注目している男である。
    昭和⼀五年生まれで、「⼀九四〇年体制」を名付けた野口だが、
    「⼀九四〇年体制」の終わりも見届けるつもりだろう)

    [平成三⼀年二月⼀七日の記事を再録]
2025年01月26日公開
2025年01月26日更新
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