[再録]「自作」・「自演」の勧め。自己肯定感を高めるために、「やった自分」を作れ。
- 「自己肯定感」という言葉が、
昨今、ちょっとした流行語になっている。
いわく、
「自分をかけがえのない存在だと思う感情」ということで、
この「自己肯定感」を高めるための方策として、
「ありのままの自分を受け入れる」
「自分と向き合う」
といったことが対で語られる。
ではどうすれば、
「ありのままの自分を受け入れる」
「自分と向き合う」ことができ、
「自己肯定感」を高めることができるのだろうか。
専門的には、おそらくいろいろな方法があるのだと思う。
私はこの分野について特に専門的な勉強をしてはけれど、
経験的に(つまりは素人考えで)、私が役立つと思うところを書いておきたいと思う。
- 自己肯定感(?)を高める方法、
それは、
「なにか、
“みるのは好きだけど、やったことがない”
ような物を、ちょっとだけでいいから”実践”してみる」
ということである。
メディアが発達し、ウェブを手に入れ、私たちは
何かを”鑑賞”したり、”視聴”したり、”閲覧”したり、
“収集したり”、”批評”したり、”消費”したり、
といったことが、日に日にしやすくなっている。
なんでも、簡単に
“見る”ことができ、”読む”ことができるようになった。
その中には、
「見るのは好きだけどやってみたことがない」
ものがきっとあるはずだ。
一度、それらの”鑑賞”ではなく、
“実践”をしてみようではないか。
- 具体的な例を挙げてみたい。
あなたがスポーツを”見る”ことが好きだけど、ほとんどやったことはない、
というのであれば、
ちょっとだけ、一人でできるものでいいから、スポーツを”やってみる”とよい。
野球でもサッカーでもよいが、
ここでは、一番簡単に、ジョギングをしてみることにしよう。
あなたが漫画を”読む”ことが好きだけど、描いたことはない、というのであれば、
“漫画を描く”ことにチャレンジしてみるとよい。
好きな漫画を取って、鉛筆でお気に入りのコマを模写してみることにしよう。
- 30分後、あなたは疲れ果てているはずである。
走ることにしたあなたは、
汗が流れ落ち、脇腹が痛くなり、耳を赤くし、心臓の脈をバクバクと打たせ、
脚を震わせ、息をぜえぜえと言わせながら家に帰ってきている。
漫画を模写することにしたあなたの、
美しかったキャラクターの顔は不細工に変形し、
手足は不自然に曲がり、伸び、
服もなんだかよく分からないものになっている。
無様だ。
大人でも泣きたくなるくらい無様である。
- では、無様なあなたは、
走りはじめる前に比べて、描き始める前に比べて、
みじめな気持ちになっているだろうか。
おそらくそうではあるまい。
ほんの少しだけ、あなたの感情は、
「自己肯定感」に近づいているのではないか。
- 走り始める前、描き始める前、あなたも
「簡単にできることではない」
と、理性ではわかっていた。
しかし、走りはじめる前、描きはじめる前、あなたの頭のどこかに、
「ちょっとやればすぐに簡単にできるようになる自分」
がいなかっただろうか。
スポーツを「見る」のが好きなあなたは、
「スポーツをやったことがないけれど、ちょっとやっただけで軽々と走れる」
なんて夢見ていなかっただろうか。
漫画を”読む”のが好きなあなたは、
「漫画を描いたことがないけれど、ちょっとやれば楽々と描ける」
そんな自分像が、頭の中に全くいなかったと言い切れるだろうか。
- 人の悩みの種になるのは、いつも
「”理想の自分”と”現実の自分”のギャップ」だ。
しかし、実は、「理想の自分」に向けて具体的な行動をとっている人は、
全く行動していない人と同じような意味では、
「”理想の自分”と”現実の自分”のギャップ」
に苦しんでいない。
(そもそもこういう人は、「簡単にできるようになる」ような、
「理想の自分」を持っていない)
「”理想の自分”と”現実の自分”のギャップ」
に苦しんでいるのは、たいがい、
別に「理想の自分」にむけての具体的な行動を取っていない人である。
誰もが何かやりたいことを、
「ちょっとやっただけで軽々とできるようになるといいのに」
という思いを持っている。
一方で、皆当然に、
「しかし、できるわけがない」
「そもそもやっていない」
というもう一人の自分も持っている。
その埋められない差こそが
いわゆる「理想と現実のギャップ」なのではないかと私は思う。
- 走り始める前、描き始める前、あなたの頭の中には
「やれば、簡単にできる自分」がいて、同時に
「やっていない自分」がいた。
走り終え、描き終えた後のあなたには、
「やれば、簡単にできる自分」も、
「だけど、やっていない自分」も、もういない。
「頑張って走ったけれど、かっこわるく息を切らせた自分」や、
「一生懸命描いたけれど、結局紙を真っ黒にしてしまった自分」が
いるだけである。
「やったけど、簡単にはできなかった自分」がいる。
しかし、あなたは格好悪くても頑張って走ったし、
へたくそでも一生懸命描いた。
「簡単にはできなかったけど、”やった自分”」がいるのだ。
- 何か、今「鑑賞」し、「消費」しているものを、「実践」してみる-。
「やれば、簡単にできる自分」と
「やっていない自分」をひとつ、
「やった自分」にしてみる-。
上述のように、これは私の経験論であり、素人考えである。
だから、これが役に立つかどうかわからない。
だが、もしこれを読んで役に立ったという人がいればうれしく思う。
平成30年12月1日(土)の記事を再録。
(補論1-1)
- 今回は「走る」「絵を描く」を例に挙げたけれど、
行動の内容は、一人でできるものなら何でもいい。
スポーツを「見る」のが好きな人なら
サッカーのリフティングでも野球の素振りでもよいし、
音楽を「聴く」のが好きな人なら
ピアノでもギターでも何でもよい。
勉強も悪くないが、
「読む」だけの勉強は効果が薄いのではないかと思う。
紙と鉛筆を用意して、「書く」勉強、
というよりも「演習」がよいのではないだろうか。
(補論1-2)
- 何でもよいけれど、
電子媒体やウェブを通すものは効果が薄いような気がする。
というのは、一つは「無様さ」を感じづらいのである。
ウェブの「敷居の低さ」というのは素晴らしい利点だけれど、
この場合は少しだけ「敷居が高い」ほうがいい。
例えば走っていない人が家を出て走るのはちょっとした冒険である。
恥ずかしい。
しかしそれを乗り越えて家を一歩出た時点で、
既にあなたは大きな勝利を手にしている。
「ディヂタルよりも手作業の方が苦労が味わえてよい」
と言うとすぐに
「IT社会についていけない老人」
のような扱いを受けてしまう。
実際私はIT社会についていけないし、老人なのだが、
これは断言してしまいたい。
充実感がほしければ、
ディヂタルよりも手作業の方が苦労が味わえてよい。
「少ない苦労で速く、質の高いアウトプットが出せる」
というのが電子媒体の強みだが、
この場合はむしろ、
苦労して質の低い、自分だけのアウトプットが出せた方がよいからだ。
- また、ウェブやソフトウェアを通すと、何というか
「どこまで自分が作ったのか」
という部分が曖昧になりやすいところがある。
結果として
「じゃあ自分で作る意味はあるのか」
となってくる場合があり、
「やっぱり”鑑賞”していればいいんじゃね?」
とさえなってしまう。
例えば、新しいプログラミング言語を学ぶ人は、入門書を読み、
サンプルプログラムを「写経」する。
あるいは自分の作りたい単純なプログラムを作ろうとする。
できると楽しいし、意義深いことだ。
しかし、考えてみればこれはプログラマー精神に反することである。
なぜなら一度誰かが作ったものを苦労してもう一度つくる、
いわゆる「車輪の再発明」なのだから。
職業プログラマーならコピーして使うか、
ATPのようなものを利用するところだろう。
さらに言えば何か自分専用のプログラムを作ろうとした場合、
今の時代、ウェブを探せばほしいものは大体ある。
「じゃあそれ使っちゃえばいいじゃん」
と思ってしまう場合がある。
(だから、作ろうとするもの自体新しいものにするか、
「勉強・練習のために車輪の再発明を行う」と割り切る必要がある)
- 何かの作品作りだって同じことで、
ディヂタル作品を作る際、どこかでフリーの素材を使うのは当たり前だし、あっていい。
フリー素材を使っていても、その配置や使い方は、使い手の個性であり、腕の見せ所だ。
また、作品全体については、
「いつか自分がこういうのを作りたい」
と思うような、憧れの作品を作っている人もすぐに見つかる。
そして、その作品をダウンロードすることもできる。
しかしこのとき、こう思ってしまうといけない。
「じゃあ、作るのに苦労せず、時間をかけず、
憧れの人の作品をダウンロードして見るだけでよくないか?」-。
そう、手間とアウトプット、「時間対効果」という物を気にしてしまえば、
それが一番効率がよいのだ。
(そうなる前に
「いや、アウトプット単体で見ても、
俺は他の人がなかなか作らない、
自分だけのディヂタル作品を作れる!」
となれればよいのだが、なかなかそうなるのも大変だろう。)
(と、言いつつ俺は結構自分がPCで作ったものを見ては
一人にやにやしちゃったりしているけれど)
鉛筆と紙で絵を描いた(模写した)あと、
自分のできあがったものが下手だからといって、
「苦労して時間かけて描いたりせず、
最初から見るだけにしたほうが
絵の出来がいいんだから、
遥かに時間帯効果が高くてよかったなあ」
と思う人はいないだろう。
(やめる人はいるかもしれないが、そういう理由ではないはずだ)
ロナウドや大谷翔平に憧れ、彼らのプレイを真似して練習したあとで、
「なんだおれ、苦労して真似なんかしないで、
TVで彼らのプレイを見れば、同じものが味わえたじゃん!」
と思う人がいたら、おそらく莫迦扱いされる。
もちろんこれはディヂタル作品作りでも同じはずだ。
同じはずなのだが、
ディヂタル作品の場合は容易にコピーができたり、
作品作りの過程で一部コピーを使ったり、
見るときには他人の作品(アウトプット)も
自分のアウトプットも同じディスプレイだったりする、
という理由からか、
「自分で作る意味」というのをなかなか感じづらいかもしれない。
(補論2)
- こう考えていくと、
今、この時代に「自己肯定感」が云々されるのも分かってくる。
ウェブを検索すれば、
自分が「どこにでもいる平凡な存在」であることなんて
すぐにわかってしまうのである。
あらゆる能力について、自分よりも高い人がいる。
また、資本主義化ではいろんなことが
お金という形で数値化され、比較されるから、
ますます、「かけがえのない自分」からは遠ざかってしまう。
「社会」とかから見たとき、
我々の人生に「意味」なんてないのである。
「社会」からみたときに意味のある、自分だけの「アウトプット」
なんて、作れる人はほぼない。
(それが作れる人はそもそも自己肯定感云々で悩まないだろう)
基本的に「自分」の人生というのは、
「自分」(とごく近しい周囲の人)にしか「意味」のないものなのだ。
(補論3)
- しかし、そんな現代でも、(将来どうなるかは分からないが)、
少なくとも今のところ「身体」は自分だけのものだ。
(あるいは身体は、自分の意識が自由自在に操れるものではないから、
身体は自分のものではない、ともいえるけど、それは何千年も前からそうだ)
走って息を切らせているのは、まぎれもなくあなただ。
脇腹を痛めているのも、間違いなくあなただ。
脚を震わせているのも、もちろんあなたである。
綺麗な部屋でウェブやTVを見たり、本を読んだりし、
「脳」を使っているうちに、つい無意識に思ってしまう時がある。
「私とは”脳”にある私の”思考”や”感情”のことだ」-。
走ったあとの苦しみが、その思いあがった思考や感情をぶちのめす。
傲慢な脳を痛めつける。
この苦しみは他の人に代替できないし、コピーできない。
結果的に自分が「かけがえのない存在」であることをつい実感してしまう。
誰か代替してくれたらいいのに-、と。
「かけがえのない自分」
というと何となく綺麗な、ポジティヴな言葉のようだが、
必ずしもそうではなく、
「かけがえがあればいいのに」
というネガティヴな意味もあるのだ。
- 「ファイトクラブ」という映画がある。
この映画のブラッドピットは現代社会で、
何の意味もない、「どこにでもいる平凡な存在」として他者から扱われ、
自分自身もそう感じるようになっている男たちを鼓舞する。
その最初の場所がファイトクラブだ。
男たちが夜、地下に集まり、殴り合い、蹴りあう。
血を流し、痛みを感じる。
今の時代、「生きている実感」というのは
そういう身体的な痛みとか、生命の危機とかがないと、
なかなか味わえない、ということかもしれない。
(補論3-2)
- 鉛筆で紙に絵を描いた後、
あなたの目の前にある、あなたの描いた(模写した)絵に
社会から見た価値はない。
「アウトプット」としての価値はゼロだ。
しかしいかに下手くそな絵であっても、あなた以外には描けない。
いかなる機械を用いても、
鉛筆の炭素や、紙のへこみ具合を完璧にコピーすることはできない。
さらに言えば、あなたですら全く同じものを二度描くことはできない。
そして、前述のように、
「自分の作ったものはアウトプットとしての価値が低く、費用対効果が低い」
という理由からは、
「何もせず他の人が生み出した絵を見て”消費”していた方が効率的だ」
とは決してならない。
なぜなら自分なのだから。
自分の絵を描き終え、見るとき、あなたは意識しないかもしれないが、
「かけがえのない、”自分の絵”」を手にしている。
それは「”かけがえのない自分”、の絵」だ。
- スポーツも同じで、
あなたがリフティングをし、素振りをしても、
その「アウトプット」には社会的には何の価値もない。
しかしやはり
「TVで見ていれば同じアウトプットが味わえるから」
という理由で「自分が」動くことをやめる人はいない。
なぜなら自分なのだから。
(補論4)
川上浩司は「京大式DEEP THINKING」の中で
鉛筆を使って物を書くことは物理法則にのみ頼っている一方、
PCで物を記録することはOSやアプリケーションや文字コードや、
その他さまざまなを規則を介在していると指摘し、
両者を「物との約束」と「人との約束」として対比した。
地面を蹴って数十kgの自分の体を前に運ぶ。
自分の指で鉛筆をもち、炭素の粉を紙につける。
鍵盤を叩いて弦を震わせ、空気を動かす。
これらはすべて「物との約束」によっている。
前述のように「自己肯定感」を高める活動としては
「物との約束」だけを介したものの方がよさそうだ、
というのが、私の持論なのだが、異見はあるだろうし、
それぞれに任せたい。
このあたりの違いはいろいろ面白そうだけど、
後日考察してみるものとしたい。
- と、ここまで書いたところで、
「ウェブや電子媒体を使う物はいまいち」
と書いたことやその理由として、
「”自分で作る”意味が見出しがたい」
というのは弱い気がしてきた。
訂正する。
ウェブ経由でも電子媒体経由でも問題ない。
一番重要な条件はきっと、
「一生懸命作ったかどうか」
だ。
一生懸命作った物であれば、ウェブ経由でも電子媒体経由でも問題ない、かもしれない。
2025年02月09日公開
2025年02月09日更新