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「なぜアフリカ系がロミオとジュリエットを演じるの?」って、それなりに深くなりうる問いだと思う。

  • 少し前、英国で、シェイクスピアの《ロミオとジュリエット》を肌の色が濃いアフリカ系の俳優が演じることについて、ちょっと批判的なニュアンスで、ネットに書いていた人がいた。
    「何で黒人がジュリエット演じるんだ、時代考証的にはどうなんだ」
    と。

    それに対して
    「いや、そんなこと言ったら日本人がシェイクスピアのキャラクター演じのもおかしいって話になるだろ」
    という反論が当然あり、だいたいまあみんなはそれで“論破”ということになって、ネットはいつも通り次の話題に進んでいったのだった。
    (そもそも現代社会では、“演じてよい/演じてはいけない”という択一だったら当然“演じてよい”になるのが当たり前だ)


  • ……いや、待って。

    「なぜアフリカ系の人がロミオとジュリエットを演じるのか」
    という問いは、言った当人はただ反ポリティカルコレクトネス的な気分で言っただけかもしれないけれど、実はそれなりに“深い問い”(になりうる問い)ではないか?

    「そんなこと言ったら○○が××演じてるのはどうなんだ、はい論破」
    で終わらせられるようだけど、
    「じゃあその“○○が××演じてる”のは、なぜなの?」
    て、問うていける話ではないか?


    前提として私は、後述するように、どんな人であっても、つまりアフリカ系であっても、アジア系であっても、女性であっても、男性であっても、あるいは人でなくても、つまり人形であっても、絵であっても、そこにいない何かであっても、ロミオもジュリエットも他のあらゆるキャラクターも、演じてよいのはもちろんだが、ぜひ演じてほしいと思っている。それはなぜ可能なのか、ということをちょっと考えてみてもいいように思う。

    ある人が、その人でないものを演じているとき、そこになにが生まれているのか、と-。


  • ちょっと極端な例から出す。

    2002年のこと、うちの高校には毎年一回“芸術鑑賞”という名前で、劇場に行って舞台演劇を見る行事があった。
    その前年2001年は杉原千畝を描いた《センポ・スギハアラ》で、翌2003年は特攻隊を描いた《The Winds of Gods》だ。

    このふたつは分かるのだけど、どういうわけかその2002年は〈劇団離風霊船〉(げきだんりぶれせん)という小劇場舞台の作品《ゴジラ》だったのだ(リンク1)。

    これは、もともとは80年代の小劇場戯曲で、うっすら特撮ファンだった私が、大学に入って演劇をやることになる、ひとつのきっかけとなった衝撃的な体験だったのだけど、特撮では全然なく、生身の、若々しい男性俳優が、背広を着たまま“ゴジラ”を演じていて、そのゴジラは人間の若い女性と恋に落ちている、という、ありえないストーリー・演出の舞台だった。
    前半は笑いがたくさん織り交ぜられて生徒は喜ぶのだけれど、最後、私も他の生徒も、青年が演じる“ゴジラ”と少女が引き離され、また、再会する瞬間、いいもしれぬ不思議な感覚を覚え、バスで学校に帰っていった記憶がある。

    (ここで現代なら当然、
    「その《ゴジラ》は著作権的にどうなのか、たぶんだめだろう」
    という話になると思う。しかしこの《ゴジラ》は演劇界で最も栄誉ある、岸田国士戯曲賞を受賞していたりするので、80年代小劇場は今よりもはるかにおおらかというか、アングラ、アナーキーなところだったのだろう)


  • その後、これに似た種の不思議な感覚が味わえたものとしては、〈たいらじょう〉という、人形劇作家の作品があった(リンク2)。私が見たのは《離れ瞽女おりん》だ。
    この人の舞台はとても面白いので、ぜひみんなに見てほしいのだが、この人は、人形を動かしながら、自分も舞台にその姿を見せ、喜怒哀楽で表情をかえ、自らもその人形が演じる役を演じている。

    そして、その熱演と物語に揺さぶられながら、時折観客は、頭の片隅で考える。
    「この、“人形の世界”からは決して見えない、人形を操りながら、同時に表情を動かし、人形の台詞を叫ぶ、この男は一体“何”なのか」
    と-。
    (「人形を操る人も一緒に演技してそれを見せる人形劇」
    というジャンル自体は、それほど珍しいものではない)


  • 〈たいらじょう〉も〈劇団離風霊船〉も、観客は、その演技とストーリーに心を動かされるのと同時に、その構造の不思議さとかにもやっぱり魅せられている

    歌舞伎(野郎歌舞伎)だって宝塚歌劇だって、今は伝統化しているが、その誕生の過程でおそらく、視た人々に、
    「何か不思議なものをみた」
    「こんな世界があるのか」
    という感覚はあったのではないか。
    それが半ば伝統化した今だって、初めて見る人、あるいは長年見ている人の前にも、時折“不思議さ”は顔を出すのではないか。


  • ここでもちろん
    「何でただの若者がゴジラを演じてるんだ」
    「人形劇の世界なのに、その世界の外にいるのか中にいるのか分からない、おまえは誰なんだ」
    という人もたくさんいるだろう。それが悪いか、センスがないか、というと、全然悪くない。
    「映画や演劇はどこまでも“リアル”を追求すべきで、“見立て”は逃げ、あるいは邪魔である」
    という考えは、あってよいのだ。
    歴史物やSFの映画で、徹底してリアリズムを追求する作品も私は大好きだし、そこでひとつでも“見立て”を使われたら興ざめになってしまうことだって、もちろんある。


  • さて、件の「アフリカ系がロミオとジュリエットを演じる」に関しては、
    「原作者は想定していなかったであろうし、時代考証というものを考えるなら、ないだろう」
    という違和感自体は、それなりに自然なものだと思う。

    そして私はこうも思う。むしろその違和感こそ、作品を観客が120%堪能するのに、活かされる可能性を持っていないか。

    ここでもちろん
    「じゃあ日本人が日本語でシェイクスピアを演じるのも…」
    という“反論”がある。
    そうだ、もちろん我々アジア系の日本語話者がシェイクスピアを演じるのにだって、慣れているだけで、実は私は正直言って違和感持つ(ときがある)。
    「何がシーザーだ、おまえ田中(仮名)じゃねえか」
    と言うことはできるのだ。

    しかしそこでその違和感を越える、あるいはその違和感を“逆用する”アプローチというのも考えられるし、すでにたくさん挑戦されているし、今でもその挑戦は続いている。だからこそ豊かな演劇・映像がたくさんできてきたのだ。

    もしかしたら今回の制作者の中には、ポリティカルコレクトネス的な正義感もあるのかもしれないけれど、その違和感への挑戦・違和感の逆用を試みた部分もあるのではないか。
    そこで、違和感を表明する人に対して、ポリティカルコレクトネス的な考えで、
    「アフリカ系のロミオとジュリエットに違和感を持つなんてアップデイトされていない!」
    と、“論破”してしまうこと、あるいは内省して、ないことにしてしまうというのは、ちょっともったいないことをしてはいないか。


  • この話に、結論というのは実はない。

    何が言いたいのかと言うと
    演じるって、不思議だよね
    っていうことだけなんですよ。

    みんな当たり前のように誰かが誰かを演じてるものを見てるけど、我々は実はすごい不思議なものを見ていないかと。


  • (補足)
    もしかするとこの書き方だと、
    「“黒人がロミオとジュリエットを演じる”
    という試みが実験的で、より作品を面白くしうるからOK」
    というふうに聞こえるかもしれない。それは付け加えとしてある、という話で、それ以前に、作品の出来とは関係なく、もちろん
    「どんな人でも、どんなものも演じてよい」
    というのは大前提である。
    (そもそも現代において、さまざまな人種がいろんな役を演じるのは、さして“実験的”とも思わないし。だから私自身は上述の“違和感”をあまり覚えないと思う)

  • (2024年07月、「黒人」の表記を「アフリカ系」に改めた
2024年05月17日公開
2024年07月07日更新
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